不思議だけど、この人たち他人のことは一切構わないんだな。私は「うつ病です」って言ったら私は最優先だと思っているんだなぁ。何がなんでも私が最優先。私が、私は、私…
鬱陶しんだよ。大事な回りの者が気分が落ちこんでいたら心配するし、とことん付き合うし、俺が出来ることは何にでもするし。関わりのある人の為にできることは何んでもするし。
鬱が、うつが、わたし鬱が…という人にすることは無い。心配することはない。ほざいてろ。
鬱らしきで心配するのは、知った人が「何かあったのかな?」と思えるほどになっている時。それに気づいた時。話しかけるんだ。応答がちょっとでも「何か変?」と思ったらさらに様子を探るんだ。大事と思える人にこそするんだ。
鬱になっている人が私、鬱でと主張することは無いし、はずも無い。出来ない、訴えれないから鬱なんだ、本人自身も気づけないから鬱なんだ。
人との関りは日頃からあるんだ。人と関わるのはそういうことなんだ。自分自身が世の中の役に立っていると感じるのはそういう時なんだ。
前に、ヤングケアラーって?出てきたけど、問題は周りとの関わり合いが出来ているかどうかだと思うよ。出来ていたら回りが必ず助けてくれるよ。後になって「あーよかった」と思えるよ。心配することは無い、周りに聞くんだ、よ。貴方に周囲の人と関わり合いがあるんだったら心配するすることは無い。
そんな一日がありました。ちゃんちゃん。
その後、鬱の人は自分自身で鬱と気づけない、気づいても自ら動けないと分かった。一番よいのは休むこと。やっちゃいけないのは自分でもう大丈夫と思わないこと。最低3ヶ月休むこと。休んでいる姿を見て、休んでやがるとか、周りが勝手に大丈夫そうと判断すること。
鬱から回復した人に教えてもらった。まあ大事な友人だけどね。やっぱり友人は大切だよ。
困るのは鬱って年金の障害に該当するから、年金欲しさに”鬱”を詐病する奴がいること。こいつらのせいで鬱で困っている人が周りに理解されにくくなっている現実があること。困ったものだね。俺が疑わしい目で見てしまうのはそういったことがあるからかもしれないね。
有名な治療法の一つが森田療法
とらわれの機制で症状が発展してさらに感覚が鋭敏化する。心理的メカニズムという。思想(考え)が矛盾(不安)する。これが”とらわれ”。自己の不安(根底にあるもの)が、よりよく生きようとする本来の欲望と相対するんだな。
これを”あるがまま”(心のやりくり「はからい」)を止めてそのままにしておく。
慢性化したうつ病には催眠療法をしていたが根本的な治療にならないから編み出された療法。長い歴史があるそうだよ。
絶対臥汝を経て身体を使って活動をし、広く心身を調和させて、自発性につなげる。
行動を通じた経験・体験をして説得ではなく自発性につなげる療法だそうだ。言葉での説明がむずか意思いけど体験・経験を通じて鬱に対処すること。それが森田療法。
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